昭和44年11月25日 朝の御理解
中村良一
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
有難い、人の難儀を助けられるということが、有難いと心得て信心せよと。そういう考え方が出来るようになって、初めて、信心が一人前と言うことではないでしょうか。人の難儀が助けられると、という事が有難いと心得て信心せよ。ね。ただ、自分さえ助かれば良いと。勿論、それは、自分自身が助からなければなりません。けれども、それは、どこまでも、自分が助かることによって、人も助かることが出来るというものに、繋がっておらなければと、私は思う。
この七十六節は、言うなら、人間は、人を助けることが出来るのは、有難いことではないかと、初めに言ってられます様に。最近、こう、人間性といった様な物を問われておりますが、その人間の、正味の中には、そういう、人を助けることの出来る、また、人を助けることの喜びが分かるものを持っておるという事が、私は、人間だけに与えられた、いわゆる、人間性だと思うですね。他の動物では、それは出来ません。ね。牛馬は、例えば、自分の子供が、水に溺れておっても、助けることは出来ん。そこを、私はその、人間性の尊さと言うものがあると思うです。そこに、私共が、信心によって、目覚めさせてもらう、ね。ですから、その事が、人の難儀が助けられるのが有難いと心得てという信心。自分が助かると。もちろん、勿論自分が助かる、けども、自分だけが助かりゃ、それで良いという様な事なら、自己主義の信心では駄目。自分が助かる。それは、また、人の助かることのための、私は、信心でなからなければならないと思います。また、教祖は、そこん所を説いておって下さる様に思います。
そこで、まぁ自分が助かるという事なんですけれども。例えば、暑ければ暑い、寒ければ寒いで、その暑いことが、寒いことが、私達の、限りない美しい心、ね。限りない、美しい心にならせて頂くための、それが、修行であり、精進であると、私は、先ず、そういうところから、分からせてもらわなきゃいけん。美しい心、その美しい心が、例えば、人を助けると。助けることの、また出来れる、その根本のものなんですからね。ですから、限りなく、例えば、美しゅうならせて頂きましょうと、まぁ合楽の合言葉のように言われておりますですね。ために、いよいよ、私共が、本気で、改まりもさせて貰わんならん、磨きもせんならん。そこでその、改まるという事も、磨くと言うことも、美しゅうなるという事のためなのですが。例えば、暑いことでも、寒いことでも、ね。暑いことを通して、寒いことを通して、ね。それによって改まり、ね。それによって、磨かせてもらうという生き方、頂き方。ね。そこに、自分の助かりがあるのです。言うならば、寒かっても有難い、暑かっても有難いという事になるでしょう。その事を通して、磨くことの材料と言うかね。改まらせて頂くことの材料になるのですから、ね。そこん所をですね。素直に、例えば、有難しと受けていくという事。寒ければ寒いことを有難い。暑ければ暑いことを有難い。なぜ有難いかと言うと、それは、暑い事だって、寒い事だって、神様のお働き、神様のお恵みという風に頂きますからでもありますけれども。もっと、切実な有難さと言うのは。その暑いことによって、自分が改まられた。その寒いことによって、自分が一段と磨くことが出来たから有難い。これはもう、切実に、そう感じますね。その事を通して、私共が思うて参りますと。ね。
昨日一昨日でしたかね。あの、夕方、テレビでやってますね、あの、てなもんや何とかち言うのがありますよ。あの、顔の長い喜劇俳優がおる。喜劇俳優ばっかりでやっているんですね、あれは何時も。面白い。あの、私は、名前そ、すぐ忘れますけれど、えー、何とか一郎と、茶川一郎か、神主さんになってるんですね。そしてその、お払いをするところがありますよ。祓いたまえ、清めたまえと言う訳なんです。それにその、漫才師の、何とかという人達が、二人その、あの巫女になってるです。赤い袴、女装している訳ですね。赤い袴をはいて、その巫女になったいる。それでその、こうやって、祓いたまえ、清めたまえと、こうやりよる時にですね。ひょこっとその、巫女さんが、頭を出したからですね。こら本当にですよ。本当に額口へ、ガクッと音がしたんです。私は、そばで見よってから。あ痛ち、ほんなごて痛いち言いよるとですよ。それで、その次の瞬間に、また出てくる時には、こう痛かったもんですから、その、おめき回りよるとですもん。そして、コブが出たち、言いよる。それはもう、いわゆる、アドリブですよね。そういうセリフなんかある筈はないとです。そっで、痛かったろち、また言いよりますもん。したら、私は、喜ぶで受けますち。これもやっぱり、アドリブです。その、コブの出て、あー、痛かったち言うて、撫でよるとです。それは、本当にですね。こうやった瞬間に、ちょっと頭出したもんですから、こう、ガクッと音がしたです。そしたら、やっぱ、コブが出たでしょうねぇ。そのコブを撫でながら、痛い痛いとこう言いよるです。もう見ながら、本当にまぁ、やっぱり、その、あぁした本番の時に、真剣にやってますから、ああして、怪我なんかがあると聞きますがね。もうちょっと、その頭を、また、地割の悪かったつですたいね。こう、祓いたまえと、ぱぁーっと祓うた時に、バーンとあの、木の木刀ですからね、あれは。それでこう、頭を打って、コブが出来た。それで、次に言いよるとです。私は、喜びで受けますち言うてからね。という様にですね。もう、全てがです、例え、叩かれても、ね。それを、喜びで受けるという事なんです。そこに、その人の助かりがあるわけですよ。あ痛、こん畜生と、言うのじゃない訳なんです。ね。
いわゆる、鴨居で頭を打って、コブを作ってもです。すいませんとこう、ね。それを、神様のお気付けとして頂く。けつまづいても、はぁ、はっと、自分に、我に返らせてもらうと、なるほど、けつまづかねばならない元があり、鴨居で、頭を打たなければならない元が、必ずある。ね。ですから、すみませんが、自ずと出てくる。そこに、その人の助かりがあるでしょう。ね。そういう、私共が、その、そういう助かりを、私共は求める。そこから、本当の美しい、人間性が、そこから出てくるのじゃないでしょうかね。このような楽な気持ち。この様な助かり方があるのだと。いわゆる、御道の信心、助かりの道とこう言う。
先日、二十三日、福岡の在のほうに、久原というところがあります。そこにあの、久原教会という、大変、少年少女会の育成では、もう日本一と言われるくらいに、沢山な信者の集まる教会がございます。ここと同じで、もう本当の田んぼの中にあるそうですけれども。それこそ、広々とした境内、広大なお広前。最近は、それに、少年少女会館が見事に、こう出来上がって、そして、その教会が出来て、四十年の記念式典が、二十三日の日にあっております。それで、秋永先生、たまたま、おいでられる事があって、まぁ参拝しておられます。それで、こういうパンフレットを頂いてきておりますのを見せて頂いておりましたら、こういう事が書いてありましたですね。そこの先生のご信心。ここは、もともと、お神酒婆さんと言われた、博多の教会の、いち、本当の無学のご婦人が、お神酒さんだけで、人が助かると言ったようなですね。特にまぁ、その教会であります。それで、自然、そこに人が集まるようになって、教会が出来たんです。まぁ随分、その四十年がです、その四十年前には、まぁ随分な、色んな迫害があったりしたらしいですけれども。それで、とにかく、非常にあの、お徳を受けられたお婆さんですね。とにかく、病院に肺病なら肺病で寝ておる患者がある。そのお祭りがありますと、自分ところのお広前の縁側からですね。その病院のほうへ向って、ぱーっと、お神酒を吹かれるんだそうです。ね。本当にあの、遠いとか、近いという様なことじゃないですね。もう、時間とか、空間と言うものがないですね、信心と言うものは。ね。遠く離れておるから、近くからという事じゃないです。真心一つで、その様な事が出来る。その患者がですね。はぁ今、先生が、お神酒を吹いて下さっておるじゃろうと言うそうです。お神酒の臭いが、ぷんぷんするそうです、病室に。と言うほどしに、お徳を受けた、そのお婆さんが、ここの教会長です、初代教会長なんです。で、婿さんがないから、その、今の先生を養子に迎えられて、その先生が、また、その現在の教会長ですが、大変、まぁ偉い先生なんですよね。非常に修行。やはり、身体が悪くて、それから、ご信心を頂かれて、御道の教師になられたと言う先生です。
その先生のお取次ぎを、現教会長が頂かれた時にですね。こういう事を言うておられますね。病気の事から、御道にご神縁を頂かれ、先生、松氏より、空気いっぱいが、神の御姿と頂かれた。空気いっぱいが。私は、ここ四五日、それを、しきりに思うんです。ですから、そういう表現を、とにかく空気、これが神様じゃから。ね。いわゆる、空気いっぱいが、神の御姿と。そういう様な、私は、表現を宣伝しておられますですね。それを、素直に、その、受けておられるわけですねぇ。空気いっぱいが神の御姿と教えられた事を、それは道理だ。空気とは、人間がつけた名称であって、その事なくしては、私は生きられない。生きることなくして、信心はあり得ない。空気を吸うことにより、神様が、自分の中に入ってくださり、悪いとこを治してくださるのだと、素直に、素朴に受け、この道は、真の信心であり、人が助かる道であるという信念を持って、ひたむきに信心を求め、薄紙を剥ぐように、全快のおかげを受けられたのであります。その事が元で、私が頂いたおかげを、人に伝えて、その人が、信心になれば助かるのだという、強い信念の元に、道の教師としての御用に立つべく、厳しい修行に取り組まれ、ことに学院においては、真冬でも、ござ一枚、丹前一枚とが寝具と言う荒修行であり、人が嫌がる御用を進んで行い。ただ一筋に、御道の信心の体得に、自ら厳しく求められたのでありますという様に、ね。人が、助かるという事のためにですね。言うならば、大変な修行もいとわれなかったと言うのです。それは、勿論、ご自信が、病気を助けられた。その助けられた元は、素直に、素朴にです、ね。空気全体が、神の御姿だと、御教えを頂かれて、それも道理だと、素直に受けておられるとこころが素晴らしいですね。
ですから、その神の御姿、その空気を吸わんでは、生きていかれない。その空気と言うのは、人間がつけた名称であってです、神様を、そのまま、私の体内に、吸うたり、吐いたりしておるんだと。だから、病気が治るんだという素朴な、いわば、ところから、そうした信念が、段々、強うなって行かれて。私が助かるという事によってです。人が助かることが出来るならと言うところに、道の教師を志されたのです。ね。そしえ、現久原教会の御比礼がある。先生が行ってから、たまがられた事はもう、ここの駐車場が広いと言うけれども、もっともっと広い。まぁ少なくとも、百五十五台ぐらいの車が集まっておったでしょうと言われております。本当に、田園教会ですよね。田んぼの真ん中に。それは、もう随分、境内でも、やっぱ、一町ほどぐらいあるのじゃないでしょうか。広々としたところだそうです。ね。そこに、沢山な人があります。もう大祭と言うたら、そこの小学校がお休みになるというくらいに、沢山、少年少女会に来るそうです。ね。勿論、あそこには、阿部先生と言うですか。教育委員長かなんかなさっておったですね。方が、あそこの総代幹部をなさっておられますから。学校の先生が、非常に、見た方、そういう意味で多い。ですから、子供達が、みな集まる訳ですね。もう、少年少女会、ボーイスカウト、ガールスカウトの組織的な、立派な会が出来ておる事においては、もう、日本一を言われるぐらいに、立派な組織と。そうした少年少女会を擁しておられる教会なんです。それが、ほんなら、いわゆるその、今、先生のですね、只今、ここに読ませて頂きましたような信念が、ね。自分の助かると言うこと、助かったという事がです。人も助かるという事にも繋がると言うのです。ね。そこに、尊い、その思い付きが、現在の久原教会の御比礼の元になったんだと、私は思いますですね。ですから、人が助かることの為にならです。例えば、時分を、身を粉にしてでもと言うような、いわば、勇ましい心と言うかね、そういう心が、自分の心に出てくるお繰り合わせ。そこには、自分自身が助かっておらなければ出来ません。ね。
昨日、ここで修行を致しております公子さんが、先日、御神米入れを頂いた。それで、これを、長く使わせていただきたい。だから先生、これに何か一言書いて下さいと言うて持って来ました。神様にお願いをしてから、書かせて頂いたんですけれども。こういう事を頂くんですよ。修行の稽古と頂きました。ね。私共は、信心の稽古、信心の稽古と、こう申しますけれども、ね。だが、信心の稽古、信心の稽古と言うて、一つも稽古が出来よらんじゃないか。自分も助からなければ、もちろん、人が助かるような働きになってないじゃないか。なぜかと、修行しないから。ね。信心に修行は付き物。その修行に徳が付くのである。力がつくのである。だから、その修行をいとうて、ね。私は、信心の稽古と言うことはあり得ない。信心の稽古とは、もうそのまま、修行なんだ。信心の稽古と言うのは。だから、先ず、修行の稽古のほうが先なんだ。ね。その修行の稽古をです、様々にさせてもらう。
例えば、久原の先生なんかは、学院に入学されたら、もう、真冬もござ一枚、丹前一枚で過された。そういう修行もなさった。それも、ほんなら、どういう事の為かと言うと、人が助かることの為に、そういう修行をしておられるという所にですね。尊いものがあります。ね。お互い、修行の稽古を、本気でさせてもらわなければならない。それで、人と名のつく、人が親しいようなら、私にだって出来ん筈はないという様な、私は、信心が必要だと、ね。お水をかかってみるのも良かろう。断食をしてみることも良かろう。何々修行をさせてもらうことも良かろう、ね。そういう修行、一つ一つです。例ええ言うなら、まだ沢山ありましょう。自分で工夫していく修行なのですから。そういう修行が、一つ一つ、私は、こう、成就して行って、ね。教祖様が仰る、表行よりは心行をせよと仰るような。表行と言うのは形の行。そういう形の行を終えて、いよいよ、尊い心行に移らせて頂くといったようなですね。いわゆる、信心の稽古ですから、一段一段、その修行も、やはり、卒業していかなきゃいけません。ね。やはり、お互い、本気で一つ、修行の稽古をさせてもらう、ね。そこに、本当の意味での信心の稽古がある。ほんならその、信心の稽古とは、勿論、自分自身が助かることのためですけれども、ね。勿論、暑いも寒いも、全てが神愛として、頂かせて貰えれるために、それを身をもって行じていくわけなのです。ね。それこそ、コブのできるほどに叩かれてもです。喜びで受けていきますという生き方なのである。で、それを、なるほど、喜びで受けるという事が、当たり前なのだと、本当なのだと、本当の事を分からせて貰うという事。ね。そこに、その人の助かりが感じられ、助かりが、またあります。ね。その助かった心で、なお且つです、人が助かることのための修行をいとわない。そこから、本当の意味においての、私は、人間性と言うものが、発揮されるわけなのです。ね。人間は、人を、ね。人を助けることが出来るのを、有難いと心得て、信心せよとは、そういう事ではないだろうか。
牛やら馬やらは、自分の子供が、例えば、水に溺れておっても、それを助けることが出来ない。ね。助けるどころか、それこそ、お互いが、人間でありながらです。人間同士が傷つけあい、憎しみあい、もう、それだけでです、それだけで、その人は、おかげを受けられないと思いますね。人間性にもとっておる。ね。そういう、素晴らしい、人間の持っておる、その素晴らしいものをです。信心によって、お互いが、磨きだしていくというか、ね。修行によって、それを、本当なものにしていく、私は、稽古そのものが、信心だとこう思います。
人が助かる道である、この道は、真の信心であり、人が助かる道である。おかげを頂く道であるというのではなくてですね。この道こそ、真の道である。この道こそ、人間が、真実助かっていく道だという、一つ、思い込みを持って、本気で、御道の信心の、いわゆる、ここに、最後にあの、言ってありますようにね。いわば、御道の信心の真髄に触れていくおかげを頂いてもらわなければならんと思いますですね。どうぞ。